昭和四十七年八月二十八日 朝の御理解
X御理解第七十二節 「人間を軽う見な軽う見たらおかげはなし。」
七十節に人間は万物の霊長であるからとこうおっしゃる。人間は万物の霊長である。これは、誰でも、どこの人でも、やはりそうです。ですからそれを、神の氏子という見方もあります。万物の霊長としの見方をさしてもろうたら、人を軽う見るようなことはない。どういう人の心の中にでも、神様が宿ってござるんだと、又は神様の言うなら、分け霊だというような、その人の霊性、その人の神性というのを尊ぶということなんですから、なかなかけれどもやはり難しい。
軽率なことを言うたりしたりしますと、どうした人じゃろうかと。どうした馬鹿じゃろうかという風に思いますわねえ。けれども、その人はその人でやはり、万物の霊長としての、霊性を備えておるのですから、そこを見ていくという事が信心。私は今日、人間を軽う見な軽う見たらおかげはなしとおっしゃるのですから、そんなら軽う見られても駄目だという事ですよね。人に軽う見られてもいけないという事。そうすると軽う見た人がおかげを受けられない事になります。
これは私共本当に体験させて頂いたが、もう昔からの知った人は、大坪さん大坪さんと気安うものを言う。それは昔から、それで通ってきてるからいゝんです。けれどもそういう人達が、お願いに来てもおかげを受けんです。やはり私を軽う見とるからです。いわゆる大坪さんに頼みよる。これは信心しよってもそうです。私の悪口を言うたり、私を軽う見た人達、まあ軽う見られてまいりました。随分と、もう今でもそうですけれども、ちった馬鹿じゃなかろうかというごと。
昨日は久留米の教会で、北九州教務所管内の総代さん方、それからその次を担う総代さん、言わば候補といった方達の集まりが久留米でありました。こゝからも総代さんが、それに菊栄会の方達が五、六人行ったでしょう。次の総代という訳なんですよね。それで帰ってからのいろいろのお話を聞かして頂いとりましたら、もう合楽は別格だというような見方、特別だという訳です。とても普通で真似の出来る事じゃないんだと。まるきり大きな事を言うた訳じゃないでしょうけれども。秋永先生が司会をされたそうですから。結局自分の事、自分の教会の事を語らなければならない。けれどもそういうような事がむしろ真実性を欠ぐようにある。
だから本当に、合楽が分かりたいと思うなら、朝の御祈念にでも出て来なさい、と言うたというような事を言ってました、が。とりわけね、こゝで財の取り扱い、というものが教会長が全然タッチしないという事なんかはもう、昔からね私共は、青年時代から盛んに言われた事ですけれども、教会のガラス張り的なという事を言われてきました。こゝでは総代さんを代表して久富さんがお初穂を開いて下さるから、誰がいくらやら、お供えしとるやら分からない。しかもそれは全部、経理へ渡して銀行へ行きますから、もうどうなっとるかひとつも分からない、といったような、実際の話をさせて頂いてもですね。ピンとこない訳です。
それこそ先生がお初穂を開けちゃならんてんなんてん言うたら楽しみはなかと、言う先生がある位、毎日お初穂開けるのが楽しみ、そういうところに私共の場合なんかは、もう言うなら、ノータッチでおれれるという事は、そんなら教会はどういう事で立っていきよるかと。それは経理がちゃんと銀行に渡し、それから又その給料が払われるというような説明をしたという事です。ところが今その、給料の事ですらが、私は全然ノータッチですから、家内に経理がすぐ渡しますから、私は全然分からない。いくら頂いていくら払い、誰にどうしょるかも分からない。
そういう例えば行き方は、私は野放図なと言や野放図ですけれども。本当に我情我欲をはずした姿というのは、福岡の初代が四神さまに、頂かれたという、馬鹿と阿呆で道を開けというのはそういう事だと思う。馬鹿と阿呆というのは決して□をかたげて歩くとか、いつも口をあんぐりと開けておるとか、というような意味じゃないと思うのです。野放図なと思われる位に、こちらがやはり大きくなる事だと思うです。
ですから初めの人は、知らない人はそれを馬鹿と言う。大坪さんちゃ馬鹿じゃなかろうか。どうしてあげん馬鹿んごたる先生の所で人が助かるじゃろうか、と不思議に思う位。けれどもね、私は思うのに、人を軽う見な軽う見たらおかげはなし。だからそういう、例えば私を軽う見たり馬鹿扱いにしとる先生方やら人達は、実際におかげを受けとらんですね。それはね、私を馬鹿に見たから罰かぶったという事では決してない。人を軽う見たらおかげはなし、という事です。だからそれを金光教では先生を軽う見たら、おかげは頂かれんという。
本当にお取次の先生を頂かしてもらうと言う事は拝ませて頂くという事。拝めれる、その為には、先生がそんなに、生き仏様とか生神様のようにしとる訳じゃないのだから、自分自身の心の状態が、わが心が神様へ向こうていく修行させてもろうておる人でなからなければ、頂けないと思う。特別にその金光様のように、本当に神格をそのまゝ形に現わしておられるかのようなお方もありますね。大徳を受けておられる方。それはたとえ信心の無い者でもやはり金光様の前に出ると、自ずと頭が下がるというような。それはまた別ですけれども、そんなら普通一般の者としてはです。そんな人というのは滅多におるものじゃありません。
ですからこれは、金光様の先生たる者、本当に人から軽う見られたら、自分もつまらんけれど、それを軽う見た人もおかげを頂かんのですから。今朝からも私、初めて幹三郎と話したんですけれども。いつも黒衣に黒えりを下着に着てますから、お父さんと同じように、この下着のこれを作ってもらいなさい。そしてこれを着たら日に何遍でもざぶざぶ洗えれる。私は三代金光様が黒衣でおありになりましたけれども、夏でも冬でも一番下に、この下着をお着になっとります。
だから横からこうやって拝ませて頂きますと、下着がチラチラとのぞいて見える位。それが非常にすがすがしいというか、有難いのを、余計有難く拝めた。以来私はそれを真似して、これを作らして頂いて、冬でも夏でもこれを一番下に着る事にしてるんです。それでね、ふぞろーっか感じ、兎に角、もう髪は石川五ェ門のごとしてから。それに色が黒うして、こうまい顔しとるのに、いよいよこまく見えていかん、と。
だからおかしい。おかしいと言うよりか、例えばそういう姿で御結界に座っとったっちゃ有難く思われんといった意味の事を、いろいろ話した事ですけれどもね。だからそのおしゃれする事じゃないけれども。例えば身なり一つでもです。垢のつかんさっぱりとしたといったような、どんなに例えばよか着物着たっちゃ、下着が汚れておったり、襟が汚れておったりしたら、もう値打ちはないでしょうが、と言うようにですね。やはり人からどうしたふぞろっか人じゃろうかと、思われるような格好はやっぱせんように慎まにゃいけん。やっぱりさっぱりとして気分がいいと、いうような私は努力は信心さして頂く者は、さして頂かにゃいかんと思う。
身なりなんか、かまう事いらんと言う事じゃない。やはり何とはなしに、相手に言うならば軽う見られんで済む、格好だけ作るというのじゃないけれども、そういう心掛けが必要じゃないかとこう思う。そこで私は今日、皆さんにこの七十二節から頂いて頂きたいのは、そんなら私を、例えばそんなら馬鹿じゃろうか阿呆じゃろうかと思うたり言うたりした人も沢山あります。また実際に、そういう態度をとられた人もあります。けれどもそういう時に、俺がどうして馬鹿じゃろうか、と言わなかったという事ですよ。俺がどこがアホかかと、むきにならなかったということ。いわゆる無抵抗であったということ。
そして自分自身の有難いという心で処理していったということ。そして段々私がおかげ頂いてまいりましたら、馬鹿じゃろうか、アホじゃろうかと、言うておった人もです、段々言うならば、尊敬の眼差しをもって見るようになってきたということ。だから本当の意味に於てです。軽う見られないという事はね、本当の意味に於ての馬鹿とアホになる修行だと思います。気のきいた事を言うて、例えば偉く見てもらう。けれどもその人が、その反面に、口と反対の事言いよったら、あら口じゃあげなこつ言うけんで偉いかと思いよったら、大体はあんな人じゃったという事になったら、一遍に下に落ちてしまう。
けれども本当の意味に於ての馬鹿とアホにならせて頂くという事。どのような場合であってもそれに無抵抗で、こちらをいよいよ極めて行こうとする行き方こそがね、私は軽う見られるどころではない。尊敬される生き方だと。そうする事によって自分もおかげを頂ける事なら、又は尊敬をする人も助かる事になるです。家内でも親子でもそうです。家内がうちの父ちゃんはあげなこつ言うばってんか、と言うて軽う見たらもう、本なこつじゃないです。やはり家内から尊ばれ、又は主人から尊ばれる夫婦であり又は親子でなからなければならん。
そん為にはね、親のさっきから申しますように、偉そうにしとけと言う事ではなくてね。さっき私は形の事を申しましたけれども。精進して出来る事なら、例えばよい着物を着れじゃなくて、やはり清潔な言わば努力といったような事は大事だと、こう言った訳です。勿論それに内容が伴うていかなければなりません。清潔好きな人は心がやはり清潔になってゆかなければなりません。もう亡くなられて二十数年になりますかねえ。『インドにガンジーという人がおりました。私はまだ亡くなられる前に、断食に入られた時の姿を初めて御心眼で頂いた。
例えば心眼というのは、千里眼的なものですよねえ。実際の姿がそこに見えるというのだから、千里向こうのをこゝで見えるというのですから。言うならテレビの原理ですよねえ。ハワイ辺りの事がよくお知らせを頂いた事があった。インドのガンジーが断食に入られた姿を見せて頂いた事もあったんですが、その後間もなく亡くなられた。そのガンジーという人は、もう本当に、お釈迦さまの再来かと、インドの国民が尊敬した人です。そしてインド独立の親と言われる程しの人格者です。
だからこの人がその当時は英国領でしたけれども、もう英国の政府に対してですね、その理屈責めやら、例えば力やらでインドを独立させろとは決して言わなかったいう事ですね。むしろ、その自分の国民に言ったんです。内容を高めて行けと、本当な事を知れと、神慮を分かれと、内容が高まってくりや、必ず独立が出来る、と説いたそうです。例えばそんなら貧乏をしとると、人から軽う見られる。だからお前はどうして軽うみるか、俺達を一人前に扱えと、言うのではなくてです。自身がです。高められる事を国民に説き明かした。
自分達が高められたら必ずインドは独立する事が出来る。自分達が独立するだけの力を持たないから、現在英国領としての、インド人でありながら、英国領に住まわんならんといったような結果になっておるのである。問題はこちらが高められさえすれば、必ず英国政府は認める、と言うて説いたという事です。そこに本当にお釈迦さまの再来と言われる、由縁があった訳です。
私はお道の信心はね、それでいく以外はないと思うです。戦わない、武力といったようなものではない。理屈で相手をやり込めるというのではない。いよいよ皆んなが分からんと直ぐ断食に入る。だからガンジーの言う事を聞かなければもうそれこそ、ガンジーがかつえ死にするかも分からん。そういう尊い人ですから、いわゆる無抵抗の中に言う事を聞かせて言った。人から神様仏様のように、言われ思われるというところは出来んに致しましてもです。あちらは信心しござるから間違いがない、立派だと、言われ思われる位なところ迄は、ひとつおかげを頂きたい。
それには、あてどん信心しよるけんこうだあゝだ、というのではなくてです。実際に、それを日常生活の上に表わしていくという事。言うならば偉大な馬鹿にアホにならせて頂く稽古をするということ。そこにです、人間は万物の霊長とおっしゃる霊徳というものは、いよいよ輝いてくる。その輝きが増してくると、それをアホとか、馬鹿とか、言うておった人までがです。成程神様じゃなあ、と信用してくれるようになるです。』
合楽の行き方に、もう別格と言われる位に、もうそげな真似は出来んと、言われる位に、そんなら合楽は段々おかげを頂いてきたという事。合楽を高く評価されておるという事なんです。教会長をはじめ、それはとても教会長先生が偉かばっかりじゃなかろうもん。信者さん方が偉いに違いない、と言うて話があったという事です。また事実そうなんです。そんならそれはどこからか、どこからそういうものが生まれて来たか、と言うと、私の馬鹿とアホ精神だと思うです。
もし合楽に、家倉、財産があるとするなら、それはもうみんな、私のハイと言うその言葉から生まれたんだと。ハイの一言から、生まれたんだと。どんな事でもハイと受ける事は、とても偉大な馬鹿にならなければ、アホにならなければ、ハイと言えない事が多いのである。私は今日は人を軽う見るという事、と言うよりもですね。人から軽う見られてはならない。それはそんなら、いつも大将じゃろうか大臣じゃろうかというごと、しとかなければならんという。そげなこつしよるなら本なこて、気違いと思われる。
けれども例えばそんなら、自分でちょっと、心がければ出来るような事。垢のついとる着物、例えば下着が汚れとる。そういう事では、どんなに立派なこと言いよったっちゃしよったっちゃです。そぞろっか、ろくそなかと言われるならば、それは軽う見られとると同じ事。軽う見れば見られた方も悪いけれど、見た方もおかげが受けられんのですから、自他共に助かっていく為にも、いよいよ人から軽う見られるような事があっちゃならん。
器量じゃない。物や財産じゃない。まず一番手近な、子供から、家内から、主人から信用されれる、私にならせて頂くという事。しかもその一番素晴らしい生き方は、それは初めの間は馬鹿と言うかもしれません。無抵抗主義ですから、言い訳をしないのですから、黙って受けて受けて受け抜いていくのですから、けれどもそれが形に必ず表れてくる。おかげになって表れてくる。こうなると、成程偉大だなと、人が尊敬をもって、見てくれるようになる事は、その尊敬して見る、その人自身も、おかげを受ける事なのですからね。私共は本当に人を、軽う見ちゃならん。人だけではない。ものも軽う見ちゃならん。
今朝も、わたし幹三郎と直子にそれを話した。私は初めて、控えで、二人に今日は話しました。何からかだったけれども話させて頂いた事だけれども。あんた達が教会で神様のおまかないを頂いておる、という事。別にあんたどんが働きがある訳じゃないから、お金の収入がないのは当り前。だからそんならいかにして、その頂いたものをです。大事に頂くかという事。例えば電気でもです。一万円の電気料を払わねばならんのが、こちらの心掛けで、九千円で済むごつなったら、それは幹三郎あんたが千円稼いだ事になるよと。使う時には、どげん使うてもよか。
ゆうべも私は夜中にお礼に出て来ました時に、表が開けっ放しになっとる。電気がついとる。そういう事は私は許されんと思うです。ですからそういう事に心掛けさせてもらう。そしてね、例えばお水ひとすくいでもです。例えばお父さんがお風呂に入ってから、湯桶半分という行き方で、しておるという事は、いつも心に神様を感じる事が出来るという事と同時に、神様の例えば御ものを大事にするというところからね。神様は必ず、何とはなしの有難いものを送って下さる。
電気をつけっぱなしの中からは生まれてこないけれども、それをいらんならずーっと、後から行って、消してまわるような気持ちになるとね。汚いとか、こすいという気持ちは決してない。神様のものを大事にするという生き方になると、何とはなしに心の中に有難いものが生まれてくる、下さる。それを金光教的な信心の情操とは、それだという意味の事を話した、事でした。
天地のお恵みのもの天地の御恩徳。それを見たり感じたり、使わせて頂いて、有難いという心、これが金光教的信心の情操だと。ですから人を軽う見るだけではなくて、物でも事柄でも、勿論だからそれを、軽う見てはなりません。軽う見るところから失敗が起こる。この位の事だからよかろうと思うて、軽う見るところから、失敗が起こる。ましてそんなら、人を軽う見る、人間は万物の霊長である。本当にその人と、お付き合いをさせて頂きよると、人が馬鹿というような人でもです。私よりも勝ったものを必ず持っておる。これは不思議です。
ですからそこんところを尊んでいくといったような行き方を身に付けていくと同時に、今日はそんなら私自身も、人から軽う見られるような事のないように。もう中々ですね、その辺のところが、心掛けとるようであっても、抜けておりますからね。自分の周囲に「ほらほらあなた」と言うてくれる人がやっぱりなからにゃいけんです、お互い。先日もこゝ下がってからでした。秋永先生が二、三人でこゝを見てくれと、私はもう、寝間着を着とった。「そんなら行こうか」と言うてから、立ち上がったら、奉仕着をちゃんと高橋さんが持って来て下さるんですよ。それは口では言われない。それで高橋さんのような人が側におってくれるという事は有難いなあと思いました。
例えばそんなら、お広前に出りゃ、大工さんや皆さんもおられる所へ、あゝたが寝間着のまゝ行かれたんじゃいけませんよ、と言わんばかりです。それでまた奉仕着をつけて出たんですけどね。私もこう言いながら、自分も努力しよると、思いながらです。そういうような事になります。昔、私は下がって、お風呂頂くともう、フンドシひとつでお広前をうろうろしよった。そしたら北野の秋山さんがえらい言いにくそうにして「親先生、そのお姿だけはおやめなさいませ」と言わっしゃった。私はそん時以来、フンドシだけで歩く事は止めました。
だからそれが言うて頂ける人があるという事が有難い。やはり軽う見られちゃならん、という事なのです。そういう努力もさせて頂きながら、大元は本気でひとつ、言うならば大きな意味に於ての馬鹿とアホにならせて頂けれる信心を身につけていきたい。言うなら無抵抗主義でいきたい。必ずそこに上る勝利こそが本当の勝利である。所謂それをガンジーの例をとって聞いて頂きましたね。そういう心掛けから、おかげが受けられるのが、金光様の御信心ですから、おかげを受けて形の上に、段々表れてまいりますと、馬鹿んごとしちったばってん、馬鹿じゃなかったという事になってきて、それが今度は段々、尊敬される在り方にならせて頂くのです。尊敬されるという事は尊敬される在り方にならせて頂くのです。尊敬されるという事は尊敬させようじゃない、される私にならせて頂く事。そこに精進をさせて頂きたいと思いますね。どうぞ